箱根でまどろむ

箱根旧街道と箱根八里


「箱根旧街道(旧東海道)」は 1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、
天下統一のために 全国の街道整備に着手し、翌1601年に旧東海道に宿駅伝馬制度を
作りました。
宿駅伝馬制度とは、街道沿いに宿場を設け、公用の旅人や物資の輸送は無料で
次の宿駅まで送り継ぐという制度でした。
輸送のために必要な人馬は、宿場が提供するというものです。
輸送は原則として隣接する宿場までで、これを越えて運ぶことは禁止していました。

旧東海道には江戸・日本橋から京都・三条大橋間までの間に53の宿場があり、
江戸から京都まで運ぶ場合、53回の継ぎ替えをすることになります。
そのため俗に「53次」と呼ばれるようになりました。

1618年、江戸幕府は箱根湯本から元箱根に至る山道を整備し街道を作りました。
三島より箱根を経て畑宿・湯本・小田原に至る32Kmが、世にいう「箱根八里」です。
この区間は「箱根八里」越えと呼ばれ、 須雲川に沿う谷間の道は平均勾配が
20%以上の上り坂が続き、旧東海道の中でも難所中の難所と言われていました。
男は十里、女は七~八里。これが江戸時代の街道歩き1日の標準旅程でした。
元々は石畳はなくて、ぬかるみ対策として1680年に幕府が石畳を敷いたそうです。
この道を参勤交代の大名の華やかな行列が往復していたそうです。

街道沿いには「旧箱根街道一里塚跡の碑」があり、箱根湯本は江戸から二十二里。
この「一里塚」は1604年に大久保長安に命じ、江戸ー京都間に一里ごとに旅人の
目印として街道の両側に盛土をし、その上に通常は榎(えのき)を植えたそうです。
※江戸から京都までは約百二十里です。

 

箱根旧街道石畳 一里塚跡の碑(箱根湯本)
箱根旧街道石畳 一里塚(箱根湯本)

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